数ある曲の中でも、特にショパンの曲を好んで弾いていたお母さん。
そんなお母さんの嫁入り道具は、箪笥や洗濯機ではなく
ピアノだった。
ショパンが生涯愛用していたプレイエルのもの。
私の一番、大好きなピアノ。
でも幼い頃見たアニメの中の、白いピアノに少し憧れた事があった。
第十二楽章
の朝は学生の平均起床時間と比べると早い。
起床は5時半。目覚めは良い方。
ここは家ではなく、しかも平日ではないのだからゆっくり寝ていられるのだが
はしっかりと5時半に目を覚ました。
日課は外で走ることだが、今日はそれは後回し。
昨日一人、決めた事を実行してから。
顔を洗って着替えて、そーっと音を立てぬように扉を開いて出て行く。
人の気配のない廊下。
皆はまだ、お休み中なのだろう。
淋しいほど静かな廊下を一人で歩き、そしてはある一室の扉を開いた。
そして直ぐに、瞳に飛び込んできたものは
白いピアノだった。
昨日見て、とても弾きたくなった。
けれど、人がいたから出来なくて。
弾いては駄目。でも、欲望は抑えきれず、幼い頃が思い出されて。
そして極めつけに兄からのメール。
『ピアノもしっかりと練習しろよ』
それを見て、決めた。
家みたいに練習すれば良いのだと。
でも、誰かに聴かれたくないから。それなら何時弾けば良い?
夜遅くは迷惑だし、案外起きている人もいるかもしれない。
それなら、朝早く。
朝早く起きるのは得意だから。
ということで、今日早朝、この白いピアノを弾く事を決めたのだった。
ドキドキする胸を抑えながら、ピアノの蓋を開ける。
楽譜はない。頭の中に入っているものがあるから。
椅子に腰掛けて、さぁ、弾こうとしたが
は鍵盤に置こうとした手を止め、立ち上がった。
「空気が少し悪い・・・・・・」
小さく呟いて、窓を開けた。
では、気を取り直して、と。
猫足の横長の椅子に腰掛けて。見事な彫刻のされたピアノ。
金のペダルに足を置き、そして小さく一呼吸。
まずは指慣らしに。と、奏で始めたのは。
雨だれの前奏曲。
初めは切なく、少し可愛らしく。
途中から土砂降りになってきたように重く。
そしてまた小降りになって・・・・・・雨が止んでいくように。
静かに、優しく指でピアノを歌わせて。
そっ、と指を離した。
その音は開け放たれた窓から、それは小さな小さなものだけれど
しっかりと届いていた。
けれど夢の中だった彼らの耳にはまるで子守歌で。
誰も気付かない。
いや、気付いているけれど、この音が夢なのか現なのか判断出来ていないのだ。
けれど、現だと思った者が一人。その音につられ、重い瞼をゆっくりと引き剥がし
「ん〜・・・・・・誰が弾いているんだろう」
のっそりと志水は起き上がり、微かに聴こえてくる音に耳を傾けた。
余韻が消えるのを待ち、はまた奏ではじめる。
ショパンの『即興曲 第1番』、『黒鍵』、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』にシューマンの『夢のもつれ』
そして最後は
「あっ、これは・・・・・・『亡き王女のためのパヴァーヌ』。悲しくない・・・・・・優しい音。でも、少し切ない。
だけど凄く心地良い・・・・・・何で、だ、ろぅ」
ゆっくりと意識は揺れ、ゆらゆらと右に左に後ろに下にと動きながら
最終的にプツン、と切れ、ベッドにまた体を預けた。
その表情には、小さな微笑。
志水がまた、夢の世界へと旅立ったと同じくらいに
の演奏も終了した。
瞳を閉じて、大きくゆっくりと息を吸い込む。
息を吐き出しながら瞳を開き、鍵盤から離した両手を見つめた。
「大好き、だよ。でも・・・・・・・・・」
手で手を包み込んで、祈るように胸の前に持っていく。
閉じられた瞳に、強く結ばれた唇、眉間に小さな皺。
この音が、こんな小さな部屋ではなく
もっと大きな場所へと羽ばたけるようになる日はくるのだろうか。
それは、本人でも分からない。
でも何かが動き出し始めているのは確か。
朝食の時。
今日は何時もよりも目覚めが良かったと、皆は口を揃えて言い
何故だろう?と首を傾げていた。
その理由を知っている、志水はボーッとしながらも食事に夢中で話に入ろうとはしない。
だが、朝食を終え、皆が動き始めた時。
「さん」
「何、志水くん?」
志水はを呼び止めた。
しかし、を目の前にしたら、なぜか言葉は全て色を失い消え去った。
何て言えば良いんだろう。何て・・・・・・・・・あぁ、そうだ。
「目覚めの良い朝を、ありがとうございます」
発された言葉に、は小首を傾げたが
志水は一人、満足し
柔らかに微笑んだのだった。
++++++++++++++++++
白いピアノを弾かせる事は考えていたのですが、内容を全く考えていなかったのでどうしようかと思い
全く出てこない志水君お相手のお話にしました。
『パガニーニの主題による狂詩曲』はアンコールでも使われています。
出来るだけ馴染みのありそうな曲を選んでいるつもりです。
興味がありましたらぜひ聴いてみてください。
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